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伝統工芸士に認定された、筆づくりの名人

 熊野町は、海抜200m前後の小さな高原盆地です。広島、呉、東広島の三つの市に囲まれるように、南北に細長い形をしています。人口は約26,000人を数え、その内1,500人が筆司という筆づくりの技術者です。また、認定試験に合格し、伝産法第24条8号により伝統工芸士に認定された、筆づくりの名人が19名います。

なぜこの町に筆づくりが発達したのか?

 筆の原料となる動物の毛は、主に、ヤギ、馬、いたち、鹿、タヌキなどで、ほとんどを中国や北アメリカから輸入し、筆の軸は、岡山県や島根県から仕入れております。このように、熊野町には筆の原材料となるものは何一つありません。 それでは、なぜこの町に筆づくりが発達したのでしょうか?
 18世紀末(江戸時代末期)ごろ、平地の少ない熊野村では、農業だけでは生活を支えきれず、農閑期を利用して、主に紀州(和歌山県)熊野地方や大和(奈良県)吉野地方に出稼ぎに行き、その帰りに奈良地方から筆や墨を仕入れ、その道中で行商をしながら熊野へ帰りました。それがきっかけとなり筆と熊野の結びつきが生まれました。

先駆者となったのは熊野の若い村人達

 今から約180年前に広島藩の工芸の推奨により、全国に筆、墨の販売先が広がり、本格的に筆づくりの技術習得を目指すことになりました。その先駆者となったのは熊野の若い村人達でした。当時筆づくりが進んでいた、奈良や兵庫県有馬で筆づくりを学んで帰り村人に筆づくりを広め伝えました。その後、村民の熱意と努力により筆づくりの技が根づき、明治5年に学校制度ができ、33年には義務教育が4年間になるなど、学校教育の中で筆が使われるようになり、需要が増えその為に筆づくりをする人が増え生産量が大きく増加しました。

全国生産の80%以上を占める

 第2次世界大戦後、習字教育の廃止により毛筆の生産量が落ち込んだ時期もありましたが、昭和30年頃からは画筆や化粧筆の生産も始まり、昭和50年には広島県で始めて通商産業大臣により伝統的工芸品に指定を受けました。現在では、毛筆、画筆、化粧筆のいずれも全国生産の80%以上を占めるまでに発展しています。このように、熊野の筆づくりは、今もなお親から子供へ子供から孫へと引き継がれています。

町内外から約5万人が集まる「筆祭り」

 日本一の生産量を誇る筆の都「熊野町」には、秋の『秋分の日』(9月23日)には町内外から約5万人の人が訪れ、開催される「筆まつり」。そして町制90周年を記念して制定された春の『春分の日』(3月20日頃)を「筆の日」と制定し国内外の小中学生から数十万点の作品の応募がある「全国書画展覧会」等などの筆にちなんだイベントが行われる。

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